幸栄館空手
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幸栄館空手は、伝統的な空手の技を継承した上で、武術文化を新しい社会教育の文化へと改革しています。

空手の歴史

空手は、約400年前から中国の拳の技術が琉球王国の高官の家に少しずつ伝わり、形成されてきたものです。 明治に入り、糸洲安恒先生がそれらをまとめ、ほぼ同時期に東恩納寛量先生が清国から拳の一部を学び帰国されました。 これらが空手(当時は「手」「唐手」と呼ばれていました)として形成されました。 糸洲先生や東恩納先生以外にも空手を教えている先生方もおられましたが、空手の大きな流れは、糸洲先生の流れと東恩納先生の流れとなります。
糸洲先生や東恩納先生もまた昔の指導方法にならい、1・2名にしかすべての技を教えませんでした。 糸洲先生の高弟は、知花朝信先生と遠山寛賢先生です。東恩納先生は許田重発先生と宮城長順先生です。

すべての技を継承

幸栄館空手の創始者であり、現会長である大西栄三先生は昭和26年より空手の指導を始めました。幸栄館空手は遠山先生により命名された名称です。大西先生は、遠山先生から糸洲先生の技を、許田重発先生(遠山先生のご紹介による師事)から東恩納先生の技をすべて学びました。これには奥義も含まれます。幸栄館空手が継承している技は糸洲先生と東恩納先生の技術です。


型を指導中の大西先生(中央)
遠山寛賢先生(右前)と
大西先生(中央)
大西先生による空手秘技のひとつ
梁を手で挟んでぶら下がる
昭和32年

空手のスポーツ化

伝統的な空手の技の保存は大切ですが、これらの技の多くは、そのままでは武術としての実用性に欠け、改良や付加が必要です。 幸栄館空手の創始者である大西先生は、昭和20年代後半に世界で始めて安全防具を実用化(特許取得)し、安全な試合を可能にしました。その上で、古い空手の技を一つずつ試し、 科学的手法で吟味し、技の改良と付加を行い、実用的で合理的な武術として空手を確立し直しました。これと並行して空手のスポーツ化を推進し、数多くの全国大会・世界大会を開催しました。

スポーツ化の反省と学問を基礎にした社会文化としての再確立

しかしながら、スポーツ化では、多くの会員が勝つことを最優先し、必ずしも人格的に良い人ではない人が大会優勝者として大きな態度をとるようになってしまいました。この反省から、昭和50年代前半にスポーツ化推進から方向を転じ、社会教育として確立するために、目的を優れた人材の育成とし、武術を学問として新たに作り直し、 そのための理論を構築しました。この理論は、教育学・倫理学・心理学・保険医学などの様々な学問の成果を取り込んだものです。

拳・空手の通史形成

大西先生は、昭和30年代に空手の歴史の調査に着手し、さらに、空手の元である中国の拳の歴史の研究にも着手しました。昭和40、50年代の中国との 国交回復直後の段階から、中国を何度も訪問し、中国武術協会の協力も得ながら、数度にわたる現地調査を実施し、未文明の時代から現代までの拳の 形成史を作り上げました。このような拳の歴史は中国でもいまだに十分に行われておらず、たいへんな歴史的価値のある研究となっています。 これらの歴史に関しては、空手史をご覧ください。

空手の伝統と幸栄館空手

幸栄館空手では、空手の本質を「君子の武術」として捉え、その伝統をさらに発展させています。詳しくはこちらをご覧ください。

進化する幸栄館空手

多くの武道が、先人の技を学び継承することを良しとしています。しかし、この最大の問題点は進歩しないということです。進歩するには、先人の技をなるべく早く学び、 さらに、改良を加え、より良いものにしていくことが不可欠です。幸栄館空手は、会員に様々工夫を加えていくことを推奨します。ここでの工夫とは、単なる思いつきの工夫 ではなく、合理的で防具試合による検証を行い、本当に意味のある改良が求められます。多くの会員がこのような研究を行うことで幸栄館空手は常に進化していきます。

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